用語解説
#01
所要時間3分
業(カルマ)の意味/由来について詳しく説明いたします。
仏教の中心概念でもある業について学ぶと、仏教の世界観が少し見えてきます。
講義で学べるポイント!
- 業とは?
- 業の種類は?
- 業をどのようにとらえるべきなのか
業(カルマ)の起源は?
業はカルマとも言い、 原語の基本的意味は「なすこと」「なすもの」「なす力」という意味で、「作用」「行為」 「行為対象」「祭祀」 などを表す言葉としてインド思想一般で広く用いられました。
要するに「何かに作用する力」というような理解で良いと思います。
紀元前6-7 世紀の思想で輪廻説が展開されるようになるのですが、
業の思想は輪廻転生説と深く関わってくることになります。
それは前世の業が現世にも影響していると言う考えです。
徳のある人は前世の徳のある行為(業)によっての結果であり、悪人は前世の悪い行為によって生じるという思想になりました。
私達もなにか悪いことが続くと、「前世に何かあったんじゃないか?」という考えをする時があると思いますが。これらはすべてこの時代に思想によるものです。
このように業は生きている中での、単なる行為だけにとどまらず、死後にも潜勢的な力となって残り、人の来世の善悪のあり方を規定するという考えは広く浸透することになりました。
恐らくそうでもしないと説明が使いない理不尽なことが多かったのだと思います。
仏教も、このような時代思潮の中に誕生したものです。
この業の思想は、仏教の因果応報の思想と非常に似ており、努力して現状を打破して いく自発的行為としての業が強調されました。
そのため教理上でも仏教思想の中心的な概念の一つになりました。
業の分類
身口意の三業
業は行為のあり方により、身体にかかわる行為を「身業」言語にか かわる行為を「口業」意思にかかわる行為を「意業」といって身口意の三業に区別されます。
身口意の三業を簡単にまとめると
- 身業…やること(行動)
- 口業…言うこと(言葉)
- 意業…思うこと(心)
ということになります。
思業と思已業
さらにこれら業を別の観点から分類したものがこの思業と思已業です。
仏教では観点を変えて、分類するということが多くあります。
それがより仏教を難しくしている原因だと思いますが、事象を理解するためには物事を多角的に見ていくことが重要で、その点ではより深い思想へと繋がっていくのです。
話が少しそれましたが、
業を意思の内的活動である「思業」と
その結果としての(思已業) とに区分することが出来ます。
この場合、意業が思業、身業と語業が思已業と呼ばれます。
(また身業と口業は具体的表現をとって他人に明示しうる点で表業(ひょうごう)ともいいます。ここまでくると少しややこしいので飛ばしていただいても結構です。)
この表業の善悪の強度の高いものはその場ですぐ消えてしまうのではなく、目に見えぬ微細な物的力として残存すると考えられ、そのような力を残す身業と語業の目に見えぬ力を特に「無表業」といいます。
業と縁起の関係
輪廻転生を縁起としてとらえ、惑(煩悩)に基づく業によって苦なる生存が繰り返されるとする、業を中心とした考えが発展していきました。
この惑・業・苦の循環していく因果関係を特に惑業苦と言います。
煩悩が業を生み、業が悪い結果を生み出します。
更に悪い結果が煩悩を生み…とこの負のスパラルから抜け出し輪廻転生から解脱することを悟りというのです。
業はこのように輪廻と結びつき、過去世の行為の善悪によって現世の状態が決まり、現世の行為の善悪によって来世の状態が決まるとします。
これが前にも説明した
いわゆる因果応報のことです。
日本ではこの因果応報の考えにより前世の業が宿業として宿命論的に受け取られ、現世の苦難を前世の業の結果として甘受する思想傾向が生まれました。
実はこの考えはメリットとデメリットがあります。
- メリット:自らの罪業の深さを自覚させる宗教的な深化をもたらす。
- デメリット:社会的差別や病気・障害などを前世の業によるものとして正当化する。
後者では宿業を受け入れた上で、現世において善業を積むことによって来世に救済を求めるようにと説得することになりました。
このことは特に近世に著しくなり、社会的差別を固定化する機能を果たすことになりました。
つまり、今努力しても結果が来世になるから、今の現状は受け入れながら、少しでも善行を行って来世に繋げよう。という考えです。
これならまだマシなのですが、生きているということは悪業を生んでいくことにならない、そのために来世に善い結果が出るように救済しないといけないと言い、相手を殺害してしまう教義的な根拠としても扱われることも一部ではあります。
この考えは本来の仏教の考えではありません。
重要なことは、全ての事象が繋がっている(縁)ということを自覚し、一つ一つの行為(業)を善いものに変えていくことに意味があります。